昭和46年05月08日 朝の御理解



 御神訓 一、「疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり。」

 話を聞かせて頂けば、誰でも一応は、成る程と。全てが神様の御神徳の現れであると云う事を、解からせて頂きますけど、御神徳の中に生かされてある。其処から尽きぬ喜びが湧くと云う事になって来ないと、ただ理屈の上で、御神徳の中であると解かっただけではいけない所に、問題があると思うですね。疑いを離れてとこう言う。これはまた中々難しい事であります。
 神様が例えば御教え下さる事等、神様はそう教えておられるけれども、言うて下さってあるけれどもと言う事なるですね。特に例えて御理解から頂きますと御理解第八十五節なんかですね『女の身の上月役妊娠悪阻に腹痛まず。腹帯をせずして産前身軽く隣知らずの安産。産後よかり物団子汁をせず。生まれた子に五香要らず母の乳をすぐ飲ませ、頭痛血の道虫気なし。不浄毒断ちなし平日の通り。』
 と言う様な御理解が御座いますけどね。これでも中々信じれない事で御座いますけど、段々医学が進んで参りまして、医学の上でこれが実証される事に成って来ると、教祖様が百年も前にこの様な事を教えておられたことが大体わかる。大体信じられる様になって来ると。中々女の妊娠といえば、やはり女の大役であり、妊娠の例えば腹帯せずしてとこう仰ゃっておられるが、腹帯は必ず致します。けれども最近の医学では、腹帯はしない方が良いと云う事だそうですね。中々それを素直に頂けないのです。
 私共の家内なんかは二人目今の若先生が生まれる時までは当たり前でしたけれども、もう三人目からは教祖様の教えて下さる通り、それを実行してもうそれまでは、まあ大変な難産で御座いましたがね。豊美の時でも勝彦の時でも。けれども三人目からは言わば八十五節に頂きます様に、そのままを実行させて頂いて自分でも申します様に、それこそ隣知らずの安産のおかげをです頂いております。
 それを本当に行の上に現して初めて成る程、隣知らずの安産のおかげを受けられると云う事を家内が身を以て実証した訳です。疑う余地はなくなった。もう本当にですね、本当に隣知らずの安産です。そこには疑いを離れてその事だけは、実証して自分の体験から、成程神様のおかげを頂かなければ、神様のおかげを頂かなければ出来んのである。安産のおかげを受けられんのだと、自分の力で産むごたる思い方というのが無くなって参りました。もう此の事だけは家内が、所謂家内のものになって来ておる訳です。
 ですから此処では皆さんが妊娠のおかげを頂いたというてお願いに参りましたり、出産のお願いに参りまして家内とお広前で会ったり致しますと、安産のおかげ頂くと皆んながそれを信じられるくらいに、また事実そういうおかげを頂いております。どんなに難産癖のある人でもです、やっぱり安産のおかげ頂いております。そういう偉大な事になって来るのですよね。疑いを離れて言わば天地の道理、広き真の大道というのは 天地に繋がる道。天地の道というふうに思います。
 其処に道がある。その道を教祖は教えて下さった。それを私共は疑わずにそれを実行する所にです、例えばこれは八十五節から頂きましても、それもそうは仰るけれどもと言うて、今まで医学で、例えば言っておる事を信じ、まあ、今まで一般に言うたりしたりして来た事を行じる。それを重きを置く。神様の教えて下さる事は、言わばそれ天地の道理にかのうた事でも、それを信じきらない。
 其処で願うからおかげを頂いてもです、隣知らずの安産のおかげ受けられるといった様な体験になって来ないのです。現に内田さんの甥になりますかね、もうこの人は難産癖がありまして、それでも今度どうでも欲しいと言うて、信心はないけれども、その時だけは夫婦でお願いに参った。処があいにく私共夫婦はどこか宅祭りか何か行っておりませんでした。そのことを聞いてがっかりして帰りかかっておる所へ、私共夫婦が帰り合わせて、ちょうど正面玄関で私共夫婦と会いましたですね。
 それで本人もそれで精神と云う事は無かろうけれども、それを聞いておりますからあちらにお願いに行ったら、あちらの奥さんと会うたら安産のおかげ頂くと云う風に聞いておりますもんですから、裏さへ行ってわざわざでも合うて、安産のおかげ頂きたいと思っておったのに、不在であったとこう言われる。まあ言うならがっかりして帰ろうとしておる所に正面でばったり会った。これで安産のおかげ頂くとこうまあ思った。
 まあ思うて喜んで帰られた。おかげで本当に安産のおかげ頂きました。と云う様にですね、家内がお産の事だけは信じて疑わない。教えの通りにさせて頂いておればいわゆる産前身軽くとこういう。例えば腹帯をしないと云う事。もう行じただけででも産前身軽、まだ生まれる前にもう私共の家内なんかは、もう生まれる前何十分前まで一生懸命動きます。それは身軽いからです一番初めからが違う。
 腹帯はせんでよいとこう言っとられる。その事を疑わずに実行する。それで産前身軽く御用が出来る。そしていよいよ産まれる時には、もうそれこそアッという間に産まれる。一番最後の栄四郎が産まれる時なんかは、もうむしろ快感があったと言う位に、いわゆる気持ちよう産まれる。産みの苦しみ等というものは全然感じていない。そういうおかげになって来るわけです。
 ですからここん処、疑いを離れて本当にその事を行じなければです、いわゆる産前身軽くと云う事にならなければ、隣知らずのおかげという安産にならん訳です。『疑いを離れて広き大道を開け、わが身は神徳の中に生かされてある』ですから、此の事をです段々押し進めて、例えば私の家内のこと申し上げましたが、全ての事にそれを行じられる様になりましたら、いわばわが身は神徳の中に生かされてある喜びを、日々刻々感じさせて頂きながら、生活が出来る事であろうとこう思います。
 ですからお互いは私共はもうお互いはもう雲か霞の様に心の中に広がって来るもんです。けれども段々一つづつ体験を頂かして頂く内にです、絶対のもの、いわゆる絶対心が生まれて参ります。初めてお参りをしている人達が、初めてお話を頂いて、成程成程が合点が行く。そして其処におかげを頂く信心の喜びが頂けれる。ところが神様は決してそういう時だけは、与えなさらんのです。
 少しわかって来て有難いと言うとその解かった事をより解からせよう、より有り難く成らせようとする働きが始まります。有難い有難いというからどの位い有難いかと、言うならばお試しが始まります。すると「これほど信心するのに」と言わば今まで信じておったと思うておった神様も疑わしくなり、それは誰しも通る所ではありますけれども。其処ん所を、これはまだ自分の信心が足りないからだと。
 修行を一段と修行させて貰い、一段と改まらして貰い、一段と研かして貰い、一段と御祈念に身を入れてさせて頂く様になりますと、その頃から、また新たな神様を其処に頂く事が出来る。同じ神様でもその神様を信ずる度合いというものは、いよいよ深くいよいよ広くなって来る訳であります。それでもまた神様は其処ん所を繰り返し、繰り返しおかげを頂かして下さる。
 ですからその時分からです、私共の信心の有難さ、信心の楽しさと同時に、信心の稽古の厳しさと言った様なものが、身について来る。其処から、本当の信心が解かって来る様になり、『我が身は神徳の中に生かされてある』それが実感として感じられる様になる。昨日、善導寺の久保山の所の孫に当たります、純…久保山純君といいます。小学校の一年生。今年から行かにゃならん。
 昨日母達と一緒にお参りをして参りましてから「純ちゃんあんたがいつも言う事をお届けせんの」とお母さんが言いよります。何かと思うたら、「神様はおんなさらん」ちゅう「御霊様はもう死んどんなさるとじゃけんおんなさらん。だから御神飯のお供えせんでもよか」と言うそうです。「神様の姿は見えんじゃんの、いくらお供えしたっちゃ食べはしなさらんじゃんの。
 そげな食べもしなさらんのにお供えしたっちゃ何もならんじゃんに」と云うう訳なんです。神様は居んなさらん。小学校一年生そういう疑問を持つ訳です。小さい、もう生まれた時から神様の前に出て来ると、柏手打つことを教えられたりね、学校から帰って来ると、幼稚園から帰って来ると、さあお爺ちゃんにご挨拶しなさい、神様にも御礼をしなさいと、それを素直に聞いておった子供がです、一年生になって少しイロハの文字もわかって来た様になったら理屈を言う様になって来た。
 「お爺ちゃんはもう死んで御座るじゃろう、神様は姿も見なければね、話もしなさらんじゃんの、それに御供えしたっちゃ何も食べもしなさらんじゃない」とこう言う訳です。私もその難しい事を言うたっちゃ解からんですから、どう説明してよいか解からなかった。そげなこと言わんでん、ちゃんと大きくなったら解かると云う訳けにはいかんのだ。其処で私はそのこういう例を話さしてもらった。
 昨日ねあのー幹三郎兄ちゃんと栄四郎兄ちゃんが二人久留米に買い物に行った。それも幹三郎兄ちゃんは買い物はまあ無かったんだけれども、栄四郎兄ちゃんが「ズボンやら夏に着るシャツやら買いたい」とこう言う。だから兄ちゃんお前もついて来てくれと云う訳である。そこで高橋さんが久留米行きしようとしている所でしたからあちら行きの車に便乗させてもらって、お金はなら五千円ばかり持って行ったら良かろうという。
 そこで五千円頂いて買い物に行った。そしてちゃんとシャツでもズボンでも皆、自分のサイズに合うものを買って来てから、私のところにもう五時過ぎていましたから、私は裏に下がっておりました。其処に兄弟二人が帰って来てから其処へ一々出して見せて、それを一々着てみろうと言って着てみました。ところがどれもこれもが合わんのです。大き過ぎるのです、栄四郎に。
 其処で幹三郎が着ました所が、ほうりゃ僕が非常におかげを頂いた、みんな幹三郎がとにちょうど良か。「やっぱり信心修行させて貰う者には勝てんな」と云うて笑った事で御座いましたけれども。その話を私が純君にしたんです。成程幹三郎君は僕と同じで、神様が御座るやら御座らんやら解からん。ものも言いなさらんし、姿も見えない。けれども此の頃信心修行させて頂く様になったら、今までとは違った、それこそ訳は解からんけれども、何とはなしに有難うなって来る程しに修行が身に付いて来た。
 修行が身に付いて来たらどう云う事になるかね。栄四郎君は自分のものを買いに言ったのに、自分の物は何一つ身に合わなかったけれども、兄ちゃんいわゆる幹三郎君は付いて行っただけだったけれども、結局はみんな幹三郎の物になってしもうた。まあそれでも解かったか解からなかった様な顔してました。それでね、あそこにアルバムがあろうが、あれにね、中島の力君が一年生の時に作文を作りました。
 その作文が入選しましてね、新聞に掲載された。それをおかげ頂いたというて、親子で私の処に、自分で作った作文を持って参りました。それがあの神様の事を書いておる。題が「おおかみさま」と書く所だったでしょうけれども、「おおかめさま」と書いとる。自分が言葉で言うた通りの事。大かめさま、亀のかめですね、「大かめさま」。「神様はいったいおるのかな」と。「おるなら顔を出すはずだ」と。
 そう云う様なその詩の様な、詩でしょうね。自分としては詩をを作った様な積りです。「神様は大体おるのかな、おるなら大体顔を見せるはずだ。大体神様というのは親先生だけにしか解からんのかな。大体神様は何を食べておるのだろう。僕も大きくなったら、親先生の様に神様がわかる様になりたい。大体僕はいつどうして生まれたのだろう」と言った様な事で締めくくって、自分の疑問と言った様なものを、そういう文章で、あそこに貼っておりますので、皆様ご覧下さい。
 もう読ませて頂いて、もう赤裸々にその自分のいわば疑いというかね、そういうものをぶちまけて、それでもお話を頂いておるし、「あ、おかげを頂いた」と言うし。「そりゃ神様のおかげじゃったの」と母親も言から。其処に神様と云う事に対する何か不思議なものを感じておる訳です。そしてその神様に一つの憧れを持っておるです。「神様は親先生にだけにしか解からない。神様の声は親先生だけにしか聞こえない。
 そういう神様は大体何を食べているだろう、僕も大きくなったらそういう神様の解かる様になりたい」と言った様なことを書いとる。それをですね読ませて、声を出して自分も、平仮名で書いておりますから読めておるようでした。読んでおりましたそれで母親がね、わかったわかったろうと「神様のおりなさる事が解かったろう」ちゅうたら解かったか、解からなかったか知りませんが「うん」ちゅうて帰りよりましたが。
 けれどもそういう場合でも、本当に親がしっかりした物を頂いとかんと、私はよい加減の返事をしてしまうと思いますね。そういう時でもです、やはりお取次を頂いて、やはりわかって親子共々に解かって行く事が必要であることを感じます。私共でもお話を頂く、お取次を頂いてお願いをする。はあ、これこそ神様のおかげであろうと実感させてもらう時には疑う余地はない。
 初めの間は、運が良かったくらいに思うけれども、それが重なって行く間に、神様を疑う余地はない事になって来るけれども、それでもなおかつ、これ程信心するのにと疑わしくなって来る。其処をまたこれはまだ自分の信心が足りぬのだと言うて、信心を進めて行くと、其処からおかげが受けられて、神様を広く深く解からせて頂く事が出来る。そして私共は絶対神を目指しておかげを頂く所から、吾が身は神徳の中に生かされてあると云う事が、理屈で解かるだけでなく体全体でそれを受けとめる事が出来る。
 心全体でそれを有難しと感ずる事が出来る。何を見ても何を聞いても、総てが御神徳の現れとして、それを実感として頂く事が出来る。其処に私共信心させて頂くものの喜びの生活というものがある。それには疑うたり又は信じたり、疑うたり信じたりの成る程その繰り返しも結構である。けれどもただそれをですそのまま、私は神様との断絶にしてしまうと云う事になっては相済まん事になるし、自分も本当の神様を解からんなりにしまうので御座いますから、信心の有難さ、または楽しさ。
 同時に信心のいわば厳しさと云う所にも、有難さがわかる信心をさして頂いて、愈々広い深い広き大道を、広き真の大道を開き見よと仰せられる。まあこれを私の例に取るならばです、おかげを頂いて様々な事を通らせて頂きましたおかげでです、どの様な場合でありましても、それを神様の御都合、神様のおかげばのと言える所まで信心を頂いておる様に思う。こっちの都合じゃない、神様の御都合のあっての事。
 そんならその御都合とはどう云う事かというと、よりおかげを下さろうとする御都合以外何もない。より力を与えて下さろうとする働きの外には何もない。それは神様の御都合ばの。私はそう信じて皆さんに言うけれども、親先生、神様の御都合でとごまかしなさる。言った様の事を言うたり思うたりする人もありますけれども、それが信じられる所までおかげを頂いて来た。
 又はそれはおかげであるぞと、おかげである事実を、私自身信じておかげと言えれる所まで、おかげを頂いて来た。いわゆる広き真の大道が段々解かって来た。吾が身は神徳の中にひたらして頂いとる事も解かって来た。そこで、どの様な場合であってもです、慌てんで済む所までおかげを頂いた。これは愈々、もっと、もっと大きい広い物に育って行く事であろうと自分でもも思う。
 皆さんもその真の力。それを愈々身に着けておいでられなければいけん。疑う余地のない所まで、神様を頂かして貰わなければいけない。疑えば限りがない、それこそ純君じゃないですけど、姿も見えないですけれど。姿も見えなければ声もない、御供えをしたものも食べなさる事も、飲みなさる事も無い神様なのですけれども。それを絶対神を以て頂ける所に、私共の安心の生活が約束される訳でありますね。
   どうぞ。